交換条件

「俺だけを見ると……、俺以外は見ないと約束出来るなら──
親友としてではなく、それ以上の感情を以って好きなのだと告白した時、ジェネシスから出された交換条件がそれだった。
ジェネシス以外なんて当然眼中になど無くて、アンジールはその場で快諾した。

ジェネシスは普段から一人で行動する事が多く、周囲も一人で過ごすのが好きなのだろうと判断して、あまり構う者もいなかった。
特にプライベートでは、ジェネシスが誰かと共に過ごしているのを見掛ける事は皆無と言って良かった。だが、その実、ジェネシスは頻繁にアンジールの部屋を訪れていた。いや、寧ろ入り浸っていた。自室で過ごすよりもアンジールの部屋で過ごす時間の方が多いのでは?と思われる程であったのだが、それは当然の如くアンジールしか知らない事実だった。
そういう訳でジェネシスは、今日もアンジールの部屋のリビングのソファで寛ぎ、のんびりとした時間を過ごしている。
林檎のフレーバーティーのほのかに甘い香りが鼻孔をくすぐる。落ち着いてほっとする時間。
『LOVELESS』を繰りながら、この叙事詩の美しさを堪能したり様々な解釈を脳内で展開させたり。何時まで読んでいても飽きない。
一方アンジールはと云うと、ジェネシスに紅茶を煎れてやってから、暫く留守にしていた部屋の中を軽く掃除したり、趣味の写真の整理や観葉植物の世話など色々と忙しく動き回っていた。
「アンジール」
ふと部屋の中に響くどこか遠慮がちな、でも不満げな声。
「どうした?」
慌ててアンジールがソファに近付くと、『LOVELESS』を閉じたジェネシスがこちらに来いとばかりに両手を差し延べてくる。
「せっかくの休みなんだから、もっと……」
ジェネシスはそれ以上の言葉を紡ごうとはしなかったが、アンジールは大意を把握した。
差し延べられた両手に応えるようにジェネシスの隣に腰掛け、その身体を両手で軽く抱き締める。ジェネシスの両手もゆっくりアンジールの背中へと廻された。何をする訳でもなく、ただ抱き合って静寂の中に身を置く。それだけで、身体も心も充足していく。
何もない。
有るのはただお互いだけ。
そんな些細な幸せに身を投じていると、突如静寂を破る耳障りな機械音がアンジールの懐辺りから響き、場の安息を乱した。
アンジールは申し訳なさそうな顔をしながらも懐から携帯端末を取り出し電話に出た。
休日にわざわざ掛ってくる電話だ。何か仕事に関わる急用な案件かも知れない。だから、ジェネシスも不服そうな表情を見せるでもなく、さりげなくアンジールから身を離し距離をとって様子見をしていた。
そのジェネシスの顔がみるみるうちに不機嫌極まりない表情へと変化していったのは、会話の内容から電話の相手がアンジールが『子犬』と呼んで可愛がっている後輩だと分かったからだ。
まだ内容が仕事に関する事なら構わない。だが、どうやら『子犬』はジェネシスとは違って社交的な性格であるらしく、仲間内であんな事があったとかこんな事があったとか、割りと些細な用事でも電話を掛けてくる傾向にある。今掛ってきた電話も応対するアンジールの様子から察するにその手の類の、緊急性の無い内容── と思われる。
視界の端に僅かにジェネシスの表情が入ったのだろう。アンジールは苦笑混じりに後輩を宥める口調に切り替え、適当に会話を切り上げると電話を切った。
そして、そのまま携帯端末の電源をオフにするとテーブルの上に投げ出す。
「悪かった、そう拗ねるな」
言いながら、両手を上げて降参の意を示した。
「別に拗ねてる訳じゃ……」
ぷいと顔を逸らして向こう側を向くジェネシスを、背後から抱き締めてやる。
「拗ねてるんじゃなければ何だ? 焼きもちか?」
「子犬なんかに妬く訳ないだろう!?」
アンジールが揶揄うように耳元で囁くと、頬を紅潮させて反論してくる。いつもの幼馴染みに戻ったとアンジールは内心安堵したが、一瞬の間を置いたのちジェネシスの顔は再び曇り、俯いた。その姿はどこか寂しげだった。こんな反応を見せるジェネシスは珍しい。
「約束と……違う」
アンジールがなんと声を掛けていいのか分からず俊巡しているうちに、ジェネシスがぽつりと零す。
「約束── ?」
背後から優しく幼馴染みの赤毛を梳いてやりながら、それとなく続きを促す。
「俺だけだって……そう、約束した筈だ。忘れたのか?」
なんだ、そんな事かと苦笑を洩らすアンジールは危機感すら感じていない。
「忘れてる訳ないだろう? 今だって、お前しか見えてないのに……」
「そんな事、信じられるか。最近のお前は何かって言うと、子犬、子犬、じゃないか!」
「ジェネシス……」
「なんだ!?」
それは、やっぱり焼きもちだろう……と思ったのだが、アンジールは敢えてそれ以上は追及しなかった。代わりに、よりしっかりと強くジェネシスの身体を抱き締める。
「本当に悪かった。この事でお前がそんな顔をするとは思わなかった。もう、お前の前ではザックスの話はしない。だがな、今みたいにうっかり……って事はあると思う」
背後から抱き締めているアンジールにはジェネシスの表情は見えなかったが、僅かに不快に眉をひそめたであろう事は容易に推察出来た。
「でもな、ジェネシス。俺は本当にお前以外は眼中に無いんだ」
意外にもアンジールの口調はどこか嬉しそうに弾んでいる。
「お前との付き合いはもう20年以上になるのに、お前には未だ俺の知らない顔がある。まだ俺の知らない一面が……あるんだ」
そう語りながらジェネシスのうなじ辺りに顔を埋ずめる。
「だから、俺はお前から目を離せない。この先、何年経ったって……ずっと」

きっと、俺は何年掛ったってお前を知り切れない。新しいお前の顔をもっと見たくて、俺さえも知らない一面をもっと知りたくて、お前に夢中になる。

二人きりしか居ない部屋で、敢えてジェネシスにしか聴こえないような低い小さな声量で囁く。
ジェネシスの耳が微かに朱に染まって俯くので、アンジールは耳の後ろに口付けてやった。ピアスが反動でチリと軽い金属音を立てる。

どれだけ深く知り合っても知り切れない、いつも新鮮な恋人の顔、表情、反応。
自分がどれだけジェネシスに夢中なのか、言葉で伝えられない事がもどかしい。

言葉で伝えられないのなら、別の手段を総動員しても伝えたい。抱擁だけでは足りない。キスでも足りない。それほどまでに想いは深い。
ピアスの金属音を合図にするかのように、アンジールはジェネシスの身体をソファに横たえた。
その時、アンジールを見詰めるジェネシスの表情がまた、今までに見たことの無いくらい切なく美しく熱の籠った瞳を湛えていて、アンジールは陶然とし喜びにうち震えた。
訪れたのは再びの静寂と衣擦れの音。
合間に僅かに洩れるジェネシスの甘い吐息。
やがてソファが重く軋んだ音を立て始めた。

end
2009/6/8