モノクローム

それは、目に見えないところから始まった──

102、58

トレーニングルームでの怪我は、単に発覚のきっかけに過ぎなくて、劣化は既に密やかに始まっていた。

99、60

電子血圧計が示す数値は、相変わらず低い。

90、60

体温も自分で分かる程に低くなってきた。最近は、36℃を切る事も多い。

一番、厄介なのは時折記憶が途切れる事だ。

ホランダーが言うには、ニューロンが破壊されているらしい。
「アルツハイマーと言う病気は知っているか? あれと似た様な状態になってる」

アルツハイマー。
脳の記憶が次々と失われていく病気。
若い方が進行が早く、新しい記憶の方が失い易い。
親しい人の事も、家族の事も、愛しい人の事も、
食べる事も、飲む事も、
最後には、呼吸さえも忘れて
死にいたる病。

「脳のニューロンが破壊されていく病気だ。破壊されたニューロンを再生する方法は今のところ無い。ただ、破壊の進行速度を遅くする薬があるから、それを処方してやろう」

失われた記憶は、二度と戻らない。

セフィロスは、俺が怪我をしてから、俺と会う時間を増やしたがった。恋人としては、当然の心境の変化なのかも知れないが、俺は少し鬱陶しい。ちょっとした約束でも一々メモして置かないと覚えてられないし、直接肌に触れられるのが怖くなった。体温の低さを悟られたくない。革の手袋は欠かせなくなった。

ある日突然、背中が酷く痛んで真っ黒な翼が生えてきた。だが、俺は至極冷静だった。翼が生える事など、最早些細な事に過ぎない。
痛覚は、まだ失われていないのだと寧ろ安堵した。


── 俺とお前の二人で任務?」
「そうだ、不服か?」
どう考えても、そんなに難しくない任務。1st二人なんて有り得ない。
「お前、ラザードに無理矢理捩じ込んだだろう?」
セフィロスは「たまには良いだろう?」と軽く笑った。

任地は、岩場の多い絶海の孤島。
岩場の陰から突如現れるモンスターは、面倒臭くて殆んどセフィロスに任せてやった。多分、放って置けば任務も終わらせてくれるだろう。
岩場の合間から覗く色褪せた夕陽を何気無く眺めていると、「懐かしいだろう」と声を掛けられる。どうやら、以前来た事のある場所らしい。セフィロスの言動から察するに、俺がまだ1stに成り立ての頃。俺達が付き合い始める前の話だ。
セフィロスは、岩が削れてちょっとした横穴が出来ている箇所を指し示す。
「あそこで、雨宿りをしたのを覚えているか? ひどい雨が降って……」
── 覚えてない」
「薄情な奴だな……」
苦笑しながら返すセフィロスは、俺の言葉を額面通りには受け取らなかったようだ。でも、本当に覚えてない。
「雨が上がった後に夕陽が差して、曇り空に大きな二重の虹が掛って……キレイだった。あんな見事な虹は、もう見られないだろうな……」
嬉しそうに語るセフィロス。きっと、大切な想い出なのだろう。
セフィロスは、俺の手をそっと握って呟いた。
「お前と二人で見られて、良かった」
大事な記憶を覚えていてやれない事が申し訳なくて、左の眼から一雫の涙が零れ落ちる。いつか思い出してやる事も出来ない。
俺の反応に戸惑いを見せながらも、セフィロスは俯く俺の顔を持ち上げ、涙を拭ってくれた。
涙で滲むモノクロームの世界で、セフィロスの魔晄を帯びた綺麗な碧だけが色付いて見える。
色覚を失い始めたのは、つい最近の事だ。
もう一緒に同じ虹を見てやる事すら叶わない。
「セフィロス。俺がお前の事を忘れたら……どうする?」
「忘れさせない──
言いながら、背後から覆うように俺を抱き締める。セフィロスの長い銀の髪が、風で靡いて俺の頬を掠めていく。
「それでも、忘れたら?」
「何としてでも、思い出させる」
「思い出さなかったら……?」
「……もう一度、惚れさせる── !」
俺を抱き締める腕に一層の力を込めて、頬に軽く口付ける。
「クッ、大した自信だな……」
セフィロスの言葉に、張り詰めていた俺の心は凪いだ海のように穏やかになる。

忘れても、また好きになれば良い。
きっと、また好きになる。
悔しいけれど、どうせ俺はセフィロスしか好きになれない。

俺は、セフィロスの方に向き直り、左の手袋を外してセフィロスの頬に触れる。
温かい体温が、冷たい手に染み込んでいく。
この温もりを忘れたくない。
「セフィロス、頼みがある。何時かまた、この場所へ連れて来てくれ」
そして、また、虹の話を聞かせて欲しい。
俺は、きっと今日の事も、この約束も忘れてしまうだろう。だけど、セフィロスが覚えていてくれる。
「忘れても、何度でも好きになってやるから……」
「随分、熱烈な告白だな」
セフィロスは、己れの頬に触れる俺の手を包み込むように掴んで揶揄する。
「お互い様、だ」
俺も口角を上げて答えた。

夕暮れに渡る潮風は、やや冷たくて、セフィロスは俺の体温の低さに気付かない。俺は、寒い振りをしてセフィロスに身を寄せる。当然のように腕を廻し抱き締めてくれるのが、本当に嬉しくて。

── 今だけは、こうしていたい。

明日には、この身がどうなるのか……自分でも分からない。明日には、何を失うのか自分でも分からない。

だから、ただ、今はこうしてセフィロスの体温を感じていたい。セフィロスの温もりを身体に刻み込みたい。


二人は、そうして暫くの間、色の無いただ眩しいだけの夕陽と、空を紫から朱色へと複雑な色合いで織り上げる美しい夕陽を黙って眺めていた。

end
2008/5/2